武道館は武道をする場所だなんて、結構大人になるまで知らなかったお話。
ビートルズが初めて武道館で音楽を鳴らしたという話も、「ライヴハウス武道館へようこそ」とBOOWYが言ったことも、ちゃんと音楽好きの基礎知識として知っていた。
わたしは、ジョンが亡くなってから2年後である1982年に生まれたオバサンなので、まだ、「武道館は聖地」という意識が強かった。
今でも武道館公演に特別な想いを持っているのは、私と同世代のバンドくらいまでじゃなかろうか。
OKAMOTO'Sとか黒猫チェルシーとか、赤い公園くらいの世代になると、そこまで特別な感じでは言ってない気がする。(言ってるかもしれないけど、私の勝手な印象では)
あのすり鉢状で古い建物は、座席は幅が狭く小さいし、急斜面に席がある。
そのぶん、ステージが近い。
適度な狭さと形のお陰で、鳴らした音も、みんなの歓声も、一気に上に集まるし、そのまま天井にぶつかって、上から降りそそぐ。お陰で、歓声が空から舞い降りてくるかのように聞こえる。
あの独特な音響効果が好きだ。
クラシック音楽向けのホールや地方の比較的新しい公民館など、音が良い会場はそれなりにある。
あらゆるバンド、歌手などの公演で、少なくもない程度にはいろんな会場に行った。
それでも、音響効果の良さ(決して音が良いというわけではないのに)で言うと、武道館ってなかなかのものなのだ。1万人規模収容のハコではダントツに良い。
遠征、ツアーDVD、ドキュメンタリー本や写真集、会報の写真やら、音楽雑誌のレポなど、気づけばそれらのお陰で、
「座席の色と階段の手すりがこれだからあのホール」「この天井と壁はあそこ」というような、ホール・アリーナ会場当てを勝手に出来るようになってしまった。
大学4年か、卒業数年後くらいのある日、
父が、テレビで柔道の試合を見ていた。
上記の通り、わたしはテレビで見る会場がどこなのか、自然と分かった。
そこで自然と口をついて出たのが
「あれ、武道館って、柔道の試合にも使うんだねー!」
すると、父が「当たり前だろう。武道館で武道やって何が悪いんだ」と。
えっ!!!
ねぇ、もしかして、
日本武道館って、
武道のための会場だったの?!
ああ、だから皇居のそばの、江戸城跡の場所に建ってるの?だからいつも日の丸が掲揚されてたの?
なぁんだ!だから武道館って言うのかー!!!
衝撃は大きかった。
そういえば、ドームも本来は野球場だってのは、行くまで忘れてる。行くと球団のショップで気付く。
味スタも、横浜日産スタジアムも、長居スタジアムも、トラックと芝があるから、ライヴの時、アリーナ席は水しか持ち込めないんだよね。
そういえば、千葉マリンスタジアムはサマソニ会場じゃない時は野球場だし、globeのツアー最終日に行った横浜スタジアムも、普段は野球場だね。
そうか、元々は、スポーツ競技のためにあるんだね!
ごめんよ、最近では両国国技館も、スカパラのライヴの印象が強過ぎて、相撲の場所なの少し忘れてた。
今月、初めてその国技館でライヴみた(レキシの国技館ライヴ、めちゃめちゃ楽しかったですよ。)。
会場の中に「東」と「西」はわかる。
「北」と「南」が無いんだね!
「向」と「正面」なんだね!
だから、相撲中継から「向こう正面にいる解説の〇〇さんです」とかいう不思議ワードが聞こえてきてたんだね!
だいたい相撲なんて父親が観てると、なるべく自室に避難するし、逃げられない時は憂鬱な気分になってたよ。
相撲って、2ヶ月に1回やってるらしいってのも、25か26歳くらいの頃に、初めて教えてもらった。
スポーツにうといけども、フィギュアスケート以外は、知りたいとさえあまり思ってないので(サッカーは昔からたまに観るし、点数がどうすれば入るかわかりやすいから嫌いじゃない)、
本当に、なんでみんな、運動するのが楽しいって言うのか、よくわからない。
音楽が鳴ってて自然と体を動かすのと、スキーをするの以外は、まずもってスポーツして楽しいって感覚が一切わからない。
ライヴでモッシュして、サークルして、飛んで、フェスのステージ間のあの長距離を行ったり来たり歩くし、テント立てたり片付けたりもする。
その、フェスを楽しむための体づくりとして、少しずつストレッチとか筋トレは始めようとするんだけども。
世の中、ライヴハウスだとしか思ってなかった場所が、
「東京オリンピックの頃に競技場として作った場所」だったみたいな話がこんなに多いなんて、
(かれこれ10年くらいスキーしてないから、苗場もフジロック会場と思ってるw)
世の中、わからないことがいっぱいだ!
わからないことがいっぱいで、ワクワクする。
それに、そんなにスポーツ嫌いな私が、こんなに球場やスタジアムやら行ってるなんて、音楽のおかげだよね。
音楽は出不精の私をいろんな所に連れてってくれる。
ありがたいね。音楽。
結局本命は本命なのだ。
今週のお題「今年見に行ってよかったもの」
イベント参加を最小限に抑えて技術力を付けつつ貯金します!
宣言をした2015年。
しょっぱなで激多忙な上に法律違反な給与不払いの企業に転職する所から始まり、半年後、人間らしく働ける職場に出会って精神的リハビリをした1年!
今年はライヴにもあまり行かずによく頑張った!さすがに自分でもこれは頑張ったと思える。
なので、ちょっとした外食以外ではほとんどお出かけ自体が無い今年。
大好きな空港(ただ空港で遊ぶために行く旅客機好き)にも1度くらいしか行かず、北海道にも行かず、桜も見ず、紅葉もあんまり見ていない…。
厳選して行ったライヴは
1月 GLAY MMHツアー 横アリ2days
3月 スカパラ 武道館(アジカン、モンパチ、10フィと亀田誠治さんがゲストとして出てる)
5月 GLAY東京ドーム2days(YOSHIKIさんはこの世に実在した!)
9月 the Birthday 武道館
11月 the Birthday BLTCツアー初日 横浜ベイホール
ことし、ライヴとフェスは最低限に抑えてるので、これに来週のレキシの国技館が入るだけ。
改めて少ない。月に1日以下!小さなハコに行ってない!
月に3~5回はライヴ行ってたワタクシとしては、現場離れの程度がものすごい。
あとはお出かけしたのも、新潟県への帰省1回以外だとTDS。
そのTDSは最高に楽しかった!GLAY東京ドーム2daysの次の日に行ったものなので、3日間が夢のような楽しさだったので、
お題への答えは
「10年越しの約束の東京ドーム、そのままみんなで行ったディズニーシー」
でございます。
なぜ10年越しの約束なのか。
それは、10年前、ドームツアー最終日となる東京ドーム公演で、
盛り上がった勢いでTERU氏が、着ていた白いジャケットを、おもむろに脱ぎ、マイクスタンドにかけて、
「10年後に、これ取りに来るから!」
と、10年後にドームで公演する事を約束したのです。
(その時、学生だった私は会場に居てしっかり公約を聞いていた)
いつもステージで迷言や名言を出すTERU氏をきちんと受け止めてきたリーダーTAKUROは、
「え、10年間ドーム出来ないの…? じゃあ2年後(3年後だったかも)のドーム抑えてるけど、予約キャンセルしなくちゃ」と苦笑いを噛み殺していたらしい。
※GLAYは「約束を守るバンド」というのを公言しており、ついつい公約を増やしては自らのハードルを上げたり、首を絞める事もあったり、時にはそれが感動を与えたりする。
「この曲やります」的な実現しやすいものから、「またこの土地に来ます」「10年後にドーム」そして比較的近年では「解散しません」という究極のものまで、ありとあらゆる公約が存在する。
2012年夏の長居スタジアムでは2015年までの7つの予定を時期含めて公開し実施した。内訳はリリースの話、東北でのEXPO開催、ツアー予定、そして東京ドームにジャケット取りに行くことまで。
財政破綻した夕張市に毎年足を運ぶ事などは約束どおり9年間続いている。
10年間で、彼らも古巣の事務所関連で裏切られたり裁判沙汰(簡単に言えば信頼していたスタッフが裏切ったこと、そして数億円分のギャラ未払い。細かいことはググれば出てくる)があったりして、
リリースやメディア露出がしにくい時期もあった。
2006年の武道館では初めて、ファンに対して「助けてください」という言葉が飛び出した。
その時期に手を差し伸べてくれたアミューズ関連のおえらいさん、コラボしてくれた氷室京介さん、EXILEなどの方々には感謝しかない。
しかもその間に家庭のぬくもりを求め続けてきたTAKUROを二児の父にしてくれた奥様岩堀せりちゃんには毎度毎度感謝しかない。
デビューのキッカケを作ったYOSHIKIさんとも再会し再び接点ができた。
プロデュースをしてくれていた佐久間正英さんという日本の文化財のような方が亡くなって、亀田誠治さんと出会う。キーボーディストの永井誠一郎ことSEIちゃんと出会う事も出来た。
やっと自分達のレーベル、事務所を作れたおかげで今では事務所ビルに専用スタジオを持つなど活動しやすくなっている。
そんな彼らの30代から40代への移り変わり。
ファンだって10代が20代に、20代が30代になり、結婚した、就職した、子供が出来た、病気になった、親が倒れた、病死した…さまざまあった。
GLAYの2015年5月30日,31日
このご時世、ドーム公演が出来るアーティストも少なくなってしまった。
しかし、蓋を開けてみれば彼らのチケットは即完売。
ファンからの悲痛な声に応え、ステージの後ろも開放し360度詰め込み、2階席3階席、ありとあらゆる席を開放。
私達は6人でファンクラブや有料モバイル会員サイト(回線複数持っている人もいたので実質7名義)で申し込んでも、余りが出なかった。チケット取るのは大変だった。
私が仲良くしてもらっている友達は、2001~03年頃、彼らのラジオ番組のBBSで話していた人と、たまたまmixiで再会し、東京に遊びに来たついでにお食事をした姐御を中心に広がった御縁の方々。
姐御が長崎県なので、北海道出身の私とは、最初何もかもが新鮮で驚きの多い会話をした。
その後、どんな時でも見捨てずにきてくれた5人と、今回はドームに。
5人は長崎県、福岡県、大分県。
私だけ北海道から東京に来た人(一時期友達とライヴ行くついでに福岡に諸事情で住んでたけども)。
ドームの2日間は、JIROファンで若手3人組が揃いのスカートとリボンを作ってみたり、TAKUROファンとHISASHIファンで構成される年上3人組(こちらが私のいるほう)も、HISAコスの姐御の横で私が封印していた甘ロリを7年ぶりくらいでやってみるなど、痛々しいおばちゃんとなりながら参加。
奈良や三重の友達と会えた以外は、残念ながら会えなかった人もかなりいたのだけども、5万5千人もいれば仕方ないやね。
ライヴの内容、さすがに20万人ワンマンで演奏したバンドなので、1度には10万人以下でないと楽しませられないと発言するようになった。
彼らにとっては5万5千人程度、「米粒サイズ」で終わらせてつまらない思いはさせない。
モニターはあるけれど、360度開放だからステージ後ろにどんと大きく組むことは出来ない。大きすぎないモニター設置。
一番遠い、3階席4階席、正面の人が肉眼で見えるように、最初は気球で後方から登場、最後もアリーナ円周をフロートでまわる。花道はそこそこの長さ。
10年前のドームツアーで生のストリングスを引き連れて指揮をしてくれた溝口肇さんが両日とも登場!(クラシックや室内楽も好きな私にはたまらない)
10年前はピンチヒッター的に入ってくれていたキーボーディスト斎藤有太さんを、アンコールで突如ステージにあげ、最近のコラボ曲とコード進行がやさしい代表曲の2曲を演奏させる(実際はチラチラと「HOWEVERやりたいから確認しといてほしい」的な事は、TAKUROが有太さんに匂わせて居たらしい。そしてさすが斉藤有太さんである、素晴らしい演奏をサラリとしてくれた。)
そして、二日目のアンコールで…
あれ?このステージにせり上がってくる見覚えのある白いグランドピアノ、と、弾いてる人は…
YOSHIKIではないか!!!
あの瞬間の歓声は、メンバーが後に危ないくらいのデシベルを記録したと公開するほど、2日間で1番の歓声だった。
WOWOWの生放送を見ていた友人は、せり上がってくる時にYOSHIKIさんの弾くForever Loveの演奏音が聞こえて居たらしいのだけど、会場では歓声が凄すぎて一切聞こえてないよwww
そのまま、RAIN(YOSHIKIプロデュースによる彼らのデビュー曲)が始まった。
ん?これは現実だ。さっきまでさんざん見てきたこのステージは確かに現実で、メンバーも生身の本物だ。そうだよね?
つまり、目の前のステージでいつものKAWAIのピアノを弾いているのはYOSHIKIだ。
「もしかして…YOSHIKIって、この世に実在したんだね!」
って、思いましたよね。
その日のTERUの喉は、最初から、決してコンディションが良くなかった。
でも、あの高音部分は、「出てくれ」って、多分会場にいたコアなファンたちは凄く願っていたと思う。
そして、コンディションが良い時よりもエモーショナルで素敵な歌を、聴くことが出来た。
まさか、GLAYのライヴでXジャンプしてYOSHIKIを見るだなんて思ってなかったから、そりゃあもう…
少年に戻ったようなメンバー4人と、何故かむしろ感極まって誰より先に泣き始めるYOSHIKI。
それでも「20周年おめでとう。続けるってすごいよ。ほら、ボク達、いろいろトラブル起きるから…」
とか話し出したYOSHIKIさんに
「いやいや起こしてるの誰よ」的な話を私達がしているそばから
「あのー、YOSHIKIさん、トラブルって、勝手には起きませんよねw 起こしてるの大体YOSHIKIさんじゃないすか」と、至極まっとうな事を言ったTAKUROに、首がもげるほど頷きたかったw(少し泣いたまま大きく苦笑いするYOSHIKIさん天然かっ!ちょっとかわいいじゃないかっやってる事のわりに)
YOSHIKI出てきた時、あ、こんな悲鳴が私は出せたのか!っていうくらい、変なとこから声出た。
いやー、あれは、見てよかった。行ってよかった。
そのまま終演後、都内東よりのホテルにみんなと合流して1泊。翌朝早くから無料シャトルバスでディズニーリゾート。
ミニーの耳をつけ、初ディズニーな姐御(当日が誕生日)にサプライズをし、いつものノリではしゃぎまくり、
気付けばみんなしてダッフィーやジェラトーニを真剣に選び、お迎え。
ミッキーに抱きつき、ミニーに抱きつき、プルートをなでなではぐはぐした。
ただアイス食べるだけでも6人で食べると
こんな事になるから、笑いが絶えない。
あまりにも夢のようだったから、現実世界に戻りたくなくて、しばらく本当に切なくて仕方なかった。
あんな体験は、なかなか出来ないし、本当にこんなに楽しめる友達と繋がれたのはGLAYのおかげ。
(GLAYファンなのに集まればレキシの曲ネタで盛り上がるし、寝巻きはレキシの袴Tシャツ。なんだかんだでL'Arc~en~cielのライヴも一緒に行くし、ロックフェスのたぐいは姐御と行くのが基本の形で始まっているので、スカパラもthe Birthdayも、大抵の話は姐御としている。
あ、以前書いたライジングサン初参加の時のTAKUヲタ仲間ね。)
やはり、あらゆる音楽が好きだけど、
本命は、結局本命だから、一番を選ぶとそうなってしまう。
勢いで書きなぐった4千字をこえる長文ですみません。
ダサかろうが、野暮ったかろうが、オワコン扱いされようが、他に好きなバンドマンも俳優もフィギュアスケーターもいるけれど、
私はTAKUROが、GLAYがやっぱり本命だ。
素晴らしい自然への愛情を切り取る。
タイトル、変な日本語ですね・・・
今日は、シンプルに、大好きな写真家さんを紹介します。
丹葉暁弥さん
野生動物、特にシロクマは今年で15年目。
地球温暖化、人間と野生動物との共存などの講演、スライドショー活動も行っています。
毎年11月上旬からシロクマの撮影に出かけています。現地から、Facebookで毎日配信予定。
Facebookページ
https://www.facebook.com/photographer.tamba
最近の活動及びプロフィールはこちらでどうぞ。
http://www.asahi-net.or.jp/~KW6A-TNB/profile.html
毎年11月に「丹葉暁弥と行くシロクマ観察ツアー」もやっています。
Blog
http://akiya.blog.so-net.ne.jp/
http://twitter.com/AkiyaTamba
Amazonの著者紹介ページからそのままコピー。
私がこの本とたまたま書店で出会ったのは2005年頃。
mixiに書いていたレビューをそのまま引用します。
2005年09月10日 17:15
Promised land →約束の地。
この言葉としろくまの写真に惹かれて思わず購入した写真集です。
北極に移動するために、毎年カナダ、ハドソンに集まり、そして氷が張ると北極に移動し、それぞれの家族単位で生活して主食のアザラシを捕まえる。
基本的に集団生活をしないホッキョクグマが、ハドソンに集まる時だけは、仲良く相撲をして遊んだりする。
それはまるで約束の地。
しろくま好きにはたまらない一冊。しろくまの生態を知ることもできます。眺めているだけでなんだかほんわかした気分になる、とっても素敵な本です。
当時、私より前に書かれたレビューが2件あったので、私としてはなんてことのないレビューを書いたつもりだったのですが、実は著者である丹葉さん自身とご家族のアカウントで紹介したものが含まれた為、純粋な読者のレビューはたまたま私が初だったそうです。「レビューありがとうございます」というメッセージをいただき、そのご縁でマイミクしていただき(マイミクって響きが懐かしい・・・)、スライドショーを見に行くなどしてお会いして以来、SNSやブログでの繋がりを常にOKしてくださっています。
先日、新刊発売記念パーティで9年ぶり(くらい)にお会いしたのに、しっかりと顔と名前を覚えていてくださり、「昔から応援してくれている」と関係者の方に紹介してくださって、私はひそかに大喜びしておりました。
自然を破壊するような無理な撮影はしようとせず、ちゃんと生体への敬意がある写真家さんです。
霧の中でも、その中で生活するしろくまを、そのまま写真に収め紹介していきます。
ほとんど霧や夕焼けで、よく見るとシロクマの親子が歩いているような写真もありますし、呑気にシロクマが車に近づいてきたときの、本当にすぐそばのどアップ写真もあります。
毎年冬になるとチャーチルに行く丹葉さんは、自然界でとても貴重な写真を撮ることに成功。
大切に、ネットには一切載せず、大事にしていたその写真が、満を持して発表されたときには、「ついに!」ということと、小学館という大手出版社だったことに非常に喜びました。
HUG!friends: セラピーフォトブック (小学館SJムック)
- 作者: 丹葉暁弥,ひすいこたろう
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2013/11/11
- メディア: ムック
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シロクマが、犬を抱きしめている写真。
これが一気に丹葉さんを有名にしたのではないかと思います。
やっとこれから狩りに出かけるはずの、腹ペコなオスのシロクマ。
犬たちの牧場にやってきます。
嗚呼、かわいそうに、犬が食べられてしまう!と誰もが思ったのに、
なんと、そのしろくまは、犬と遊び始めます。
そして、写真のように、ハグするのです。
(抱き方がよくわからず、犬を逆さまに抱いてしまった写真などはスライドショーでしか見られませんので、ご本人のスライド公演などでご覧ください。かわいいですよ。)
この珍しい瞬間に出くわす自体、奇跡です。
文筆家・ひすいこたろうさんの文章と共に、この感動的な場面を見ることができます。
手ごろな大きさで、手元に置きやすいこと、絵本のようなストーリー仕立てなこと、英語でも表記があるのでプレゼントにしやすいということも、オススメです。
言葉なしで、写真をしっかりと見られる、
こちらは、しろくまが本当に好きな人にオススメです。
サイズも大きめで、飾っておくにも良いかと。
そして、今年発売された新刊が、
こちら。HUG!today
ひすいこたろうさんが、シロクマたちのあらゆる姿に、あらゆる言葉を重ねています。
それぞれのページごとに静かに力強く私たちの気持ちを慰め、寄り添い、奮い立たせてくれます。
コミカルな場面も多く、こちらは、丹葉さんが出したかった形での本となったということで、とても喜んでおります。
HUGシリーズは英語訳もあり、しろくまの写真と言葉という形なので、まだ文字の読めないお子様から、お年寄りまで、老若男女が楽しめるはず。
おまけ。
丹葉さんが「犬を抱くしろくま」の写真を撮影されたことを知っているので、
私は「しろくまを抱く犬」の写真を、ずーーーっと待ち受けにしてます。
生まれた街のあの白さをあなたにも見せたい
今週のお題「行ってみたい時代」
私は「1989年前後の頃の函館」
青函トンネルは開通し、世の中は昭和から平成へ。
私が殆ど記憶のない時期の日本。北海道、函館。
私が函館で産声を上げた、1980年代前半には、
同じくその街では、TAKUROとTERUが鍛神小学校で出会ったり、青森県から函館にHISASHIが引っ越してきていたり、相撲が嫌いと言いながら父親に厳しく育てられていたJIROが居たのだ。
彼らは当時小学校高学年。
更に、JUDY AND MARYのYUKIちゃんだって住んでいたし、
まだ幼いsleepy.ab山内くんだって住んでいたわけだ。
GLAYが函館でライヴをしていたのは、彼らが高校生の間。つまり1988〜90年くらいの頃。
残念ながら私は1988年には函館から札幌に引っ越してしまうし、1993年には東京の片隅に引っ越す。
GLAY(JIRO加入前)メンバーが揃って上京したのは1990年。
そして、東京のすみっこで、彼らと目と鼻の先のあたりに私は住んでいた…。
函館市内といい、東京都某市やその近辺といい、ニアミスし過ぎである。
私の、GLAYメンバーとのニアミスは、自発的には選べない次元の出身地や引越し先の話レベルでは無い。
- 東久留米市のコンビニ・デイリーヤマザキでHISASHIがアルバイトしていた頃、私も東久留米市の小学生。
- 東村山のスタジオでレコーディングしていたGLAY。私の通った高校は東村山市にある。pure soulツアーで西武球場に来た時にはまさしくそのエリアで生活していた。
- 2002年の1月末、メンバーの1つ後の便で青森入り。
- 1日違いで青森市の同じレコード店に行き、同じブックオフに行く。
- 2003年の武道館、メンバー車が来たことに気づいた私だが、たまたまTERUも車内から外を撮影しており、動画に写り込む。
- 2004年の札幌、私が昼に行ったお店で、その日の夜からGLAYのサインが飾られた(私の後に彼らが来た)
- 2004年に引越した場所、あれ?HISASHIの実家割と近いはずだ
- 2006年のライジングサンロックフェスティバル、TAKUROファン2人で初の夏フェス参加の際、バンプの天体観測で盛り上がっていたら、裏ステージにTAKUROがサプライズ登場。あんたら何しに行ったんだよと散々言われ、今でもこの時の話は2人でのトラウマ兼鉄板ネタだ。
- 2006年か2007年、長崎の眼鏡橋で写真を撮った私の、同じアングル、1本違いの橋で撮った同じ日のTAKUROの記念写真が会報に載る。
- 2010年頃、渋谷で買い物をすれば昨日TERUさん来てましたよーと言われる
- 2012年夏、あれ?なんであんなに狭い函館空港でHISASHIに気づかなかった?
- 同じ日、店の二階にTERU来てましたな。スタッフそわそわしすぎだよ。
このような話は枚挙に暇がない。
ジョンレノンスーパーライヴ、ポールマッカートニー来日公演、X JAPAN東京ドーム、ピロウズのライヴ、スカパラのライヴ、the Birthdayのライヴなど、同じライヴ会場に来ていて、かつ来賓としてのメンバー目撃談多数だというのに、
一度たりとも出会えた試しがない。
ここまでくると、TAKUROのよく言う「さよならだけが人生さ」という半分笑いを取るためのようなセリフのように
「ニアミスだけが人生さ」
などとさえ言いたくなってくると。
というわけで、私が行ってみたい時代は、1989年頃の函館、あうん堂を埋めたGLAYを見に行きたい。
一瞬、シェイクスピア作品の初演をグローブ座で見ようか、リストの生演奏をコンサートで体験しようか、生きている頃のジョンレノンを…、会ったことのない祖母の生前に…などなどは思いついたのだけど、
…まぁ、俗っぽい、本音が勝ったということで。
TAKUROが好き過ぎるだけの話だった。いつものオチだった。
精神科って、脳内科とかに改名すればいいんじゃないの?
ただの思いつきなんですけどね。
脳外科って、既にあるでしょ。頭蓋骨開いて腫瘍を取ったりする。
それでね。
精神科の医者がやってる事って、
脳という器官に対して分泌を補填したり抑えたりする薬を処方する事。
それはもう、内科とか内分泌科とかと同じではないかと。
なので、「脳内科」とかに改名したほうがいいんじゃないの?
って、何故かふと、こないだ、なんだか急に思いついたんです。
だからどうって言うわけでもなくてね。
「精神科に対する差別意識がある人とはまずお付き合いがしにくい」が着想のスタート地点で、
「そもそも私は差別意識や抵抗が無かったのは何故だろう」
「じゃあ、差別を生むのって何故だろう?」
から、「名前が誤解をうんでるんじゃないのかなー?」と。
確か、そんな順序で、思いついたんです。
ただそれだけです。
行動で伝える人の話。
かつて、カレセンという言葉があった。
分かりやすいから、カレセンなの?と聞かれたら、そうですよと答える。
三國連太郎と児玉清が好きなのだから仕方ない。
何より私は、グランドファザコンだ。
私は祖父母とは離れて育った。
なかなか会えなかった。
津軽海峡を渡ったり、陸上を数百キロ移動しないと会えなかった。
母方の祖父は今月で91歳。
お酒飲まない、タバコ吸わない、ギャンブルも勿論しない。
規則正しい生活をし、勤勉で、穏やかで、真面目で、寡黙で、身だしなみはきちんと整える。人の嫌がる事は黙って片付けてくる。
東北のド田舎の、半農半漁の集落に住む人として、つましく暮らしてきた。誰からも嫌われない。
従兄のお嫁さんも「あのおじいさんを知ってたら結婚相手は見つからないでしょう」って言う。
巨人が負けると機嫌が悪くなり理不尽に怒鳴られる環境で育った私には、祖父の「怒鳴らない・不機嫌にならない」だけでも、素晴らしいと思っている。
終戦時に21の誕生日を半月後に控えた20歳だった祖父は、戦前戦中の日本を知っている貴重な人なのだけど、昔の話は聞いたことがない。
戦時にどんな徴兵をされどこに行ったのかも、全く聞いた事がない。
片耳は若い頃からあまり良くなかったが、それが戦時中そばで爆発があったかららしいと母から聞いたのが唯一の若い頃の話。
会いに行くと、「はぁ よぐ来だ」って嬉しそうに言う。
その一言だけで、祖父は喜んでいるのが良くわかる。
言葉って、なんと無力なのだろう。
祖父は、愛情を全て、あんなに無口なまま伝えてしまっている。
四人の娘を育てあげ、孫達を優しくみまもり、支えてきた。
スラリとした体型だが、半農半漁の家を支えてきただけに、船や道具を扱う時だけ見える筋肉は物凄い。働く人の身体をしている。
あの無口さをそのまま真似たとして、私の職種じゃ仕事が出来ない。
それに個人的に文章を読むのも書くのもストレス発散だから、私は、言葉に頼るのをやめられない。
だけど、祖父みたいに、行動であれほど伝えられる人には、かなわないって思ってる。
祖父が大好きだ。
英語コンプレックスを克服して趣味にしてしまった私の父の話。
この記事の方への応援の意味も含めて、私の父について書いてみる。
私の父は、英字新聞を読み、映画は字幕無し、吹替え無しで観るのが好きな63歳だ。
パスポート無し、海外旅行に興味無し、資格は英検もTOEICもTOEFLも何もかも興味無し、仕事に役立てようとも思っていない。
ただただ、趣味として英語の作品や文章を楽しんでいる。
まさにコンプレックスを解消をした人と言って良いと思う。
父は学生時代、英語が苦手で、高校の英語系科目はおそらく五段階評価なら1か2といったところだった。
「資格を取るため専門学校に一年多く通った」とは聞いていた。
今年になって知った話では、
「残り英語1科目の単位だけで資格のランクが変わるからお前そのくらい取ってから卒業しろと先生に説得された」
「俺はその時は英語なんかやりたくないから即卒業でいいと思ってた」だそうで。
要は英語の単位落としたせいで留年をする羽目になったのと同じだったわけだ。
(そのときの資格を取得して卒業・就職してくれたお陰で、母はずっと専業主婦のまま、私と弟は私立大学まで行かせてもらえた。そのへんはとても感謝している)
私が知る限りの、父の現在の英語レベル。
- 英字新聞は、JAPANTIMESならそこそこ読めている。
- 小説は語彙力が増やせると言って楽しんでいる。
- SFアクションのように難しくないレベルの台詞で進む映画はストーリーを追える。
- 話す上で変なためらいが無いので、相手に一応通じる話が出来る。
- 書くのは苦手。3単現のs落とす、時制の不一致など、かなり基礎的なミスが多い。ただ、通じないか通じるかで言えば、一応通じる。
このレベルなのに、いきなり、中1の1学期で出てくるような、it'sとitsの違いをいきなり私に聞いてきて私が驚いて口をパクパクしてしまうことがある。
「なぁ、この映画のここの台詞何度聞いても If I "were" you って言ってるけど 本当はなんて言ってるんだ? wasかamしか入らないとこだろう?」
「え、仮定法だからI were youでしょう」
「カテイホーってなんだ? 高校英語?高校の授業なんて聞いてなかったんだから知るもんか」
父は、学生時代は英語が苦手で嫌いだっただけでなく理数系の人間ゆえ、文系な私から見ると語学や文に関するセンスもない。
私の記憶にある限りでは、父が英語を学習し出したのは恐らく44歳か45歳の頃。
まだVHSに録画した映画を、巻き戻しては聞いていたと思う。
職場に来ていたネイティヴスピーカーとの会話レッスンを週一度受けていた時期が少しあった。
簡単なレベルから始まり、英和辞典ではなく英英辞典で調べるようになり、ニュース記事のプリントアウトした紙に、調べたメモをいっぱい書き込んでいた。
映画をMDやらUSBやらに音声データとして取り込んでひたすら聞いていた。
中学英語をやり直す本とか、私はこうしてマスターしたとか、英語学習のこれは間違ってる、あれはどうだ、動詞をマスターすればいい、前置詞だ、いや違うなどなど…そんな類の本は、積み上げたら1メートルを突破しそうなほどの量を買ったり借りたりしていた。
(積ん読の人なので全部読んだかは不明。父の積ん読から面白そうな本を読んで身につけるのは私w)
とはいえ、海外経験ゼロのまま、父は英字新聞を辞書なしで読む人になった。
正確には、一度だけ海外経験はあるが、英語学習を趣味としている事から海外出張にいく数人のメンバー内に父を入れられた事があり、その時のヨーロッパ某国に一度行ったのが最初で最後。
今も父はパスポートを持っていない。
海外旅行にも興味がない。
ただ英語を読んだり聞いたりするのが楽しいだけ。
仕事に役立てようとも思っていない。
英検もTOEICもTOEFLも、英語系資格は一つも受験した事がないし、父にはそれらの資格の魅力など無いようだ。
英字新聞を先にマスターした父にとっては、小説には知らない単語が多く、ボキャブラリーが増えるから楽しいそうだ。
きちんと学校で勉強した私とは違い、目標がそもそも就職でも資格でもなく、留学でも無い。
ただ、苦手だった英語を、苦手じゃないものとするのが達成だから、父は現在進行形で、それを達成しようとしつつある。
たとえばTOEICは文章が難しい文章が出るのではなく、あの量を読み切れるかで400点台を抜け出せる。
全部読み終わってマークシートを塗れば600点は行くはずだ。
その観点からすると、父の文章読解速度は非常にゆっくりだ。
でも、父はゆっくりだと思っていないはずだ。
早くすることを目標に置いていないから、読む速度について考えた事も無いだろう。
趣味でやっているから、父にとっては勉強ではない。だから飽きることも無いらしい。
今もゆるゆると続けているようだし、たまに面白い記事を見つけては翻訳に取り組み、ブログにその話を書いているようだ。
キャッツアイの歌詞
we get you mysterious girlをGoogle翻訳にかけておかしな事になっている、冒頭のブログ主さんも、
そのうち、「いただきよ(戸田奈津子風)」みたいな感覚で捉えればいいのかな?と、思える日がくると思う。
学校で習うのとは違って、自由な教材を選べるし、自分で好きな方法も選べる。
お金を自分で稼いでいる大人の特権だ。
大人になってから何かを学ぶって、自由だ。